マリーの部屋

人々の幸せを願うマリーが、投資、資産運用、キャリア、受験、子育て、金融について語ります。金融機関勤務25年超。東京大学経済学部卒。

スナックまりー  1年祭


こんばんは~いらっしゃい。
お元気だった?


ごめんなさいねえ、今日は黒ずくめで。
1年前になくなった叔母の一年祭だったの。
いとこたちと、叔母をしのんで、祭事をし、会食をしたのよ。


神道だから一年祭っていうの。


おじやおばって、人によって距離感がまちまちよね。
あたしはこの叔母ととても近くて。
父の姉なの。
トータルで2年くらい、2回居候として一緒に暮らしたこともあるのよ。

(形見としていただいた、奥田英山の信楽焼)


一回目の居候は、あたしが大学生のとき。30年近く前ね。
叔母の息子たちが立て続けに、結婚や就職で家をでてしまって、寂しいっていうから私が居候させてもらったの。
楽しかったわ。


叔父が1部上場の大企業の会長だったのもあって、ひっきりなしにお客が来たり、毎日のように接待だったり。にぎやかな時代だったわ。
接待のお土産が豪華なのよ。私は翌日にそのお土産をおかずにしたお弁当を作って大学に行ったりしたわ。
老舗のアナゴの煮つけとか、ごはんにのっけて 笑。


お客様が来るときは、叔父もお客様もたいてい外でごはんを食べた帰りみたいで、よっぱらいの偉い人がいっぱい。
どっかの教授とか、大企業の役員とか。テレビに出ている知識人とか。


そうすると私は「若い女子」だったしお相伴するの。
お酒の味を覚えたのはこのときだったわね。
お客様との会話を通じて、その後の営業能力もいつのまにか培っていたのかもね。


みんな、上品でお話も面白い方ばっかりだったわ。
ダジャレをたくさんきいたのは、時代かしら。うふふ。


当時はバブルの残り香がまだあるときだったわ。
叔母が株でもうかったときには、こっそりお小遣いをくれたりして。


海外旅行にも「カバン持ち」として連れて行ってもらったわ。本当にカバンもったわよ 笑
冬の地中海、きれいだったなあ。


2回目の居候は、長男を産んだとき。20年くらい前ね。
あたしの両親は海外にいたから里帰りなんてできないし、夫は長男が生まれた数週間後から留学に行っちゃったのよ。


産後で行き場がない上に、乳児つきで、役に立たない私をあたたかく受け入れてくれたのは叔母だったわ。
産後だから栄養をつけなさい、と、誰よりも大きなステーキを私の前においてくれたり。


私が疲れているときには、あかちゃんをしばらく預かって、お昼寝させてくれた。


夜泣きしても、文句ひとつ言われなかった。


この叔母のうちで3か月過ごしたあと、私も夫の留学先へと渡米したの。
そこで、一人で子供と向き合って、育児休暇中で仕事もしなくて、毎日とりとめのないことを考えていたの。


そのとき心の底から気が付いたのよ。


なんと大きな恩を受けていたのか、って。


こんなこと、自分が将来できるかしら、って。
無理無理って思いました。


同時に、叔母が目標にもなったわ。


私が居候したどちらのときも、べつに叔母は私を受け入れる必要はなかったのよ。
でもそれができたということは、


経済的余裕と、
精神的余裕


があったということだと思うの。


経済的余裕がなければ、私の生活費なんてまかなえない。
食べ盛りの、大学生よ。


それから、世代の違う親戚の子なんて、言動をみて、むっとしたり、説教したい気持ちになったこともあると思うわよ。
でも何も言われなかった。


そして、いいことだけ、してくれた。


相当、精神的余裕があって、他者をうけいれることができないと、こんなふうにはふるまえないと思うわ。


この時の恩が忘れられず、そして、一生忘れてはいけないと思っている。
だから叔母の孫にあたるいとこの子供たちに、機会があれば相談にのったり、ごはんをごちそうしたりしています。アメリカの家に泊めたことも1回あったかな。


でも、受けた恩の1%もお返しできていません。


私の理想。
将来経済的、精神的余裕をもって、
他者をうけいれたいということ。


親戚でも、留学生でも、施設の子でも、養子でも。


なまなかなことではできないわよ。
いいときもわるいときも、ちゃんと受け入れることができるような、余裕。


あたしもだいぶ年をとったと思うけど、まだまだ叔母の境地には、ほど遠いわ。


1年祭とか、法事って大切ね。
改めて、大切なことを思い出させてくれる。


ありがとうございます、叔母様。


献杯。

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